芥川龍之介『蜜柑』

日曜日って、どうしてこうも一日が短いのでしょうか・・
あぁ、また明日から仕事です(-"-)


今日は午前中に一ヶ月ぶりの美容院に行ってきました。
この歳になると、せめてこれくらいのサイクルで美容院に行かないことには、髪に白いものが目立ち始め、みすぼらしくてしょうがありません。
ただ、髪を染め続けていると絶対に痛んできますので、美容師さんから「ヘアマニキュアとトリートメントを定期的に行なうのがベストの選択」と薦められるがまま、ここ数年はそれで過ごしています。
「とにかく“ツヤ”ですよ! ツヤさえあれば、少々白髪があっても老けては見えないんです。どんなに高価な服を着て、きれいにお化粧をしても、髪にツヤがなければ台無しですよ」・・と、本日も力説されてましたなぁ〜
ふむふむ・・・
まぁ私は、高価な服にもお化粧にも、さほど興味がないので、髪くらいは神経を使っておいたほうが良いのかもしれません^^;


さて、その美容院の椅子に座って、ヘアマニキュアを浸透させている間、目の前に置かれた雑誌などに一応目を通したものの、あまり気を引かれる記事もなかったので、ぼんやりと昨日このブログに書いた、「みかん」と「りんご」のことを考えておりました。
すると、なぜか中学生の頃の「国語の授業」が浮かんできたのです。


確かあれは中学生だったと思うのですが、国語の教科書に、芥川龍之介が書いた『蜜柑』という短編小説が載ってました。
ざっとあらすじを思い出すと、ある男性が汽車に乗ったところ、前の席に「下品な顔立ち」で「不潔な服装」の小娘が座るのです。
この娘が、トンネルに汽車が入る手前だというのに窓を開け、男は非常に不愉快になるのですが、そのトンネルを抜けたところで、踏み切りの向こうに娘の弟たちが待っていて、開けた窓から娘は蜜柑を投げるのです。


舞踏会・蜜柑 (角川文庫)

おぉ^^
今ネット検索すると、原文が出てきたので、最後の部分を引用しましょう。

(前略)
暮色を帯びた町はづれの踏切りと、小鳥のやうに声を挙げた三人の子供たちと、さうしてその上に乱落する鮮(あざやか)な蜜柑の色と――すべては汽車の窓の外に、瞬(またた)く暇もなく通り過ぎた。が、私の心の上には、切ない程はつきりと、この光景が焼きつけられた。さうしてそこから、或得体(えたい)の知れない朗(ほがらか)な心もちが湧き上つて来るのを意識した。私は昂然と頭を挙げて、まるで別人を見るやうにあの小娘を注視した。小娘は何時かもう私の前の席に返つて、不相変(あひかはらず)皸(ひび)だらけの頬を萌黄色の毛糸の襟巻に埋めながら、大きな風呂敷包みを抱へた手に、しつかりと三等切符を握つてゐる。…………
 私はこの時始めて、云ひやうのない疲労と倦怠とを、さうして又不可解な、下等な、退屈な人生を僅に忘れる事が出来たのである。

    インターネットの図書館、青空文庫より http://www.aozora.gr.jp/

幕切れの鮮やかなことといったらありません。
今も教科書には載っているのでしょうか?


・・と、それはさておき、この『蜜柑』を、私はなぜか時々思い出すのです。
教科書に載ってた話なんか、おおかた忘れてしまっているというのに!
(いや、そうでもないかな・・  魯迅の『故郷』は、「ルントウ」と「ヤンおばさん」もセットで凄く記憶に残ってます^^;)


そして忘れもしないのが、始めの方で男が娘に対して持った印象を綴った文章から、一つの言葉を覚え、それが気に入って馬鹿の一つ覚えで何かと使用していた私自身のことです。

(前略)
それは油気のない髪をひつつめの銀杏返(いてふがへ)しに結つて、横なでの痕のある皸(ひび)だらけの両頬を気持の悪い程赤く火照(ほて)らせた、如何にも田舎者(ゐなかもの)らしい娘だつた。しかも垢じみた萌黄色(もえぎいろ)の毛糸の襟巻がだらりと垂れ下つた膝の上には、大きな風呂敷包みがあつた。その又包みを抱いた霜焼けの手の中には、三等の赤切符が大事さうにしつかり握られてゐた。私はこの小娘の下品な顔だちを好まなかつた。それから彼女の服装が不潔なのもやはり不快だつた。最後にその二等と三等との区別さへも弁(わきま)へない愚鈍な心が腹立たしかつた。
(後略)

・・・その一つの言葉とは、「愚鈍」という言葉でして、生意気な中学生だった私は、「なんと素晴らしいアイテムを手に入れた」とばかりに、なんでもかんでも自分が気に入らない人間や物事を、「愚鈍だ!愚鈍だ!」と非難しては悦に入っておりました。
親も愚鈍なら、先生も愚鈍。妹なんかもちろん愚鈍。学校全体が愚鈍。
もぉ〜「グドングドン」と言い過ぎて、しまいには家中で笑われていたくらいです。
アホでした・・・


まぁ、そんなことはさておき、芥川龍之介は本当に凄い人です。
この『蜜柑』という小説の最後に、おそらくほとんどの読者は「みかんの匂い」をかいだ気持ちにさせられるのです。

私はこの時始めて、云ひやうのない疲労と倦怠とを、さうして又不可解な、下等な、退屈な人生を僅に忘れる事が出来たのである。

この一文に到達したところで、どんな濁った空気も一瞬で変えてしまう、みかんを剥いた瞬間のあの匂い、爽やかで清廉なあの匂いを、今まさに嗅いだような気持ちにさせられます。


しかし、小説の中では、みかんは剥かれることはありません。
娘は蜜柑を食べるのではなく、みな弟たちに投げて与えるのです。
それが「鮮やかな蜜柑の色」として空中に踊る様子だけが描かれています。


でもどういうわけか、いつまでも読者に記憶に残るのは、「蜜柑の香り」なんですよね・・・


そう、それには巧みな作者の仕掛けがあり、芥川は、はじめから読者の「嗅覚」を刺激しているのです。
語り手の男が「煙草」を吸い始めるのを皮切りに、小娘の着衣を形容する「不潔」という言葉には、こちらの鼻もちょっと拒否をします。さらに娘が「鼻をすすりながら」汽車の窓を開けたことで、急に車内に充満する「どす黒い煙」・・

煤(すす)を溶したやうなどす黒い空気が、俄(にはか)に息苦しい煙になつて、濛々(もうもう)と車内へ漲(みなぎ)り出した。元来咽喉(のど)を害してゐた私は、手巾(ハンケチ)を顔に当てる暇さへなく、この煙を満面に浴びせられたおかげで、殆(ほとんど)息もつけない程咳(せ)きこまなければならなかつた。

同じく気管支の弱い私は、もはや男に同情し、娘を嫌悪する以外、何もできなくなります。
しかしまたすぐに、

もう窓の外が見る見る明くなつて、そこから土の匂や枯草の匂や水の匂が冷(ひやや)かに流れこんで来なかつたなら、漸(やうやく)咳きやんだ私は、この見知らない小娘を頭ごなしに叱りつけてでも、又元の通り窓の戸をしめさせたのに相違なかつたのである。

・・・と、新鮮な土や草の匂いがして、男と同じく、私の鼻や喉もなぐさめられる仕掛けがあるので、ここまでくると、放っておいても読み手は、文章を追いながら「匂い」も嗅いでくれます。
そしてあえて結末で「蜜柑の皮を剥く」ようなことなどせずとも、新鮮な「香り」が匂い立つわけです。



芥川龍之介って、正真正銘の天才ですね。



・・・・それにしても、口を利くこともなかった「小娘」への「男の気持ち」の変遷が面白いです。
なにしろ、終始一貫、勝手に悪意を抱きまくり、途中でそれがピークに達するかと思うと、ちょっと和らぎ、最後には大変な好印象を持ったものの、そのなんと「一方的」なこと!


結局、娘への感情は、男自身の心の投影に過ぎず、実際の娘は娘で、まったく別の世界で生きていることが示されており、いろいろ考えさせられます。
人は皆、多かれ少なかれ、この娘と男のような関係性を持ちながら、互いに様々勝手なことを思い合い、この世を生きている・・・ってことでしょうか。


うん、やはり「みかん」は、人と人の間に必要ですね!


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