『ボストン美術館展』感想その3/アンリ・ファンタン=ラトゥール

感想を書き出すと、他にもいろいろ湧いて出てきます。
4月17日から六本木ヒルズの森アーツセンターギャラリーで開催されている『ボストン美術館展』ですが、今日も、私の心に残った作品の感想を一つ書きます。




展示の最後の部屋、「静物と近代絵画」のコーナーで、とても新鮮な輝きを放っていたのが、アンリ・ファンタン=ラトゥールの静物画でした。



『卓上の花と果物』アンリ・ファンタン=ラトゥール作(1865年)




先日開館した三菱一号館美術館『マネとモダンパリ展』を鑑賞し、さらにこの『ボストン美術館展』には充実した印象派の作品が多数展示されていましたので、それらを観た最後に、すっと現れたアンリ・ファンタン=ラトゥールの絵には、ちょっと驚かされるものがありましたし、様々胸に去来しました。




私がアンリ・ファンタン=ラトゥールに心惹かれるのには、いくつか理由があります。


まず、彼の絵が非常に美しいことで、これは誰もが認めるところだと思います。
今回展示されている静物画にしても、なんという高度な技術とセンスでしょうか!
桃からは桃の甘い匂いが、葡萄からは葡萄の少し酸っぱい香りが、花からは花の・・・と、その対象の周辺の空気すら濃厚に感じさせる、静物画の最高地点にある作品です。


次に、彼がイタリア人画家の父と、ロシア人の母との間に生まれた、パリでは「外国人」であったことに、興味がわきます。
そして、あの生粋のパリっ子であり、恵まれた上流階級の出身であるエドゥアール・マネと、生涯にわたって友情を結び、互いを認め合っていたことも、注目すべきことに思えます。
さらには、あの女流画家ベルト・モリゾを、マネに紹介したのは、そもそも彼なのです。
しかも後年、このベルト・モリゾからは、あまり敬意を持たれていなかったことや、他の印象派の作家たちからも、時代遅れでオリジナリティーの欠けた作家として嘲りを受けていた・・・などのエピソードが、頭をよぎります。


それでも、マネだけは、ずっとファンタン=ラトゥールの支持者でした。


マネ自身は、ずっと保守派の牙城であるサロンに闘いをいどみ続け、革新的な絵を次々と発表しては批判を浴び、それがまた印象派の若手作家たちの尊敬を集めましたが、彼らが主催する印象派展には出品することがありませんでした。
マネにはマネの考えがあってのことです。
一方、表面的には保守的な花の絵や肖像画で、サロンからも大衆からも高い評価を得るファンタン=ラトゥールでしたが、彼は彼で、何もそこに安住していたわけではなく、独自の闘い、新しい高みへの挑戦を続けていました。
マネや、印象派の作品を認め、賛辞を送りつつも、自分の世界は別に追求して動じることがなかったのです。
そんな彼に、マネは、他の誰が何を言おうが、ずっと友としての敬意を持ち続けます。




何か「新しい潮流」が出て、その波のうねりが大きくなっていくとき、そこにあえて乗らない人・・・というのがいます。
そうした人は、いつしか過去の遺物として扱われたり、創意工夫や勇気に欠けると言われたり、ややもすると不当に評価されるおそれがあります。


アンリ・ファンタン=ラトゥールは、その美しい画風を愛する人が沢山いる一方、玄人気取りの愛好家などからは、ちょっと軽く見られる傾向もありました。
特に日本人は「印象派」が大好きな人が多いので、どうしても見方がそっちに傾きがち・・・かもしれません。


しかし今回、『ボストン美術館展』で、最後の最後にアンリ・ファンタン=ラトゥールの静物画に出くわしたとき、その褪せることのない美しさと存在感に、言いようもない嬉しさを感じました。
「あぁ〜〜負けてないよ! アンリさん! 今日はいくつもいくつも印象派の絵を見てきたけど、最後に観たあなたの絵は、やっぱり凄くステキです!」・・と、叫びたくなるほどでした。


しかもとなりにある絵は、ピカソとともにキュビズムを創始したジョルジュ・ブラック静物画です。
これは素晴らしいレイアウトだと思いました。
現代美術とは違い、過去の作品を見る・・・ということの楽しみは、こういうところにあるのだな・・と思わせてくれる、そんな展示でした。




そうそう!
アンリ・ファンタン=ラトゥールは、熱狂的なヴァグネリアンだったのです("▽"*)
実は私、ヴァーグナーはちょっと苦手な作曲家なのですが・・・・(笑)




近代芸術家の表象―マネ、ファンタン=ラトゥールと1860年代のフランス絵画ジョルジュ・ブラック―絵画の探求から探求の絵画へ印象派はこうして世界を征服したキュビズムと抽象美術   世界美術大全集 西洋編28