舟歌

思えば幼い頃はあまり魅力を感じない曲だった。
ショパンの「舟歌」Barcarolle Op. 60…が、こうも好きになったのは、たぶん高校三年生の頃だったと思う。
例によって受験勉強をしながら、カセットテープに録音したショパンピアノ曲を聞いていたのだが、なぜかある瞬間、この「舟歌」に恍惚となった。
何度も耳にしてきた曲なのに、まるで初めて聴いたかのような新鮮な響きで胸に飛び込んできた。
目の前に、陰影に富んだ運河の水面と、そこを静かに進む小舟が浮かんだ。
小舟には若い恋人同士が肩を寄せ合い、そのままどこかへ去ろうとしている。
行き先は分からない・・・
まったく、受験勉強なんてものを毎日何時間も続けていると、どうしようもなくロマンチックな幻想が浮かんできても、それに素直に乗っかって感動するらしい。
なんと私は、その自分の幻想(妄想?)に感動して、涙ぐんだのだった。


演奏していたのは忘れもしない、マルタ・アルゲリッチ
あれ以来私にとってこの曲とアルゲリッチは、特別な存在となった。
デビュー・リサイタルショパン・ピアノ・リサイタル
それからというもの、多くのピアニストで「舟歌」を聴いた。
自分でもちょっと弾いてみたが、あまりに理想からかけはなれていて、その度に幻滅し、この曲に私ごときは手を触れてはいけない!・・と思い定めたりした。
ポリーニの完璧な技術に「参りました〜」と感服したこともあれば、ツィメルマンの端正で優雅な演奏にうっとりしたこともある。
古い録音では、ルビンシュタインの華麗なフレージングが好きだった。

しかし、やっぱり、私には今でも「舟歌」最高の演奏者は、マルタ・アルゲリッチだ。
彼女の演奏には、なんと表現したら良いのだろうか、一種呪術的な力があるのだ。
ピアノの音一つ一つにのって、魂を燃やす火の粉が迫ってくるようだ。
小舟にのった人の人生が、まるで自分のものであるかのように感じられる。
別の世界にぐいっと連れて行かれる。
・・・こういう興奮は、他のどのピアニストの「舟歌」にも無い。



それはそうと、「舟歌」といえば、オッフェンバックのオペラ『ホフマン物語』の二重唱も有名だ。
この曲は学生時代に合唱で歌ったことがあるので、私にも非常に馴染みがある。
こちらの「舟歌」は、イタリアはヴェネツィアの運河上で娼婦二人によって歌われる設定で、実にハッキリとした光景が浮かぶ。
ヴェネツィアは、数あるイタリアの美しい都市の中でも、特別な街だ。
交錯する大小の運河を様々な船が行きかい、人々は橋から橋を渡ってそぞろ歩く。
ゴンドリエーレの互いを呼び合うのどかな声が聞こえ、ところどころに開けた広場には大道芸人が音楽を奏でている。
・・・こうして想像するだけでも、今すぐにでも飛んで行きたくなるほど大好きな街だ。


またこのオペラを、私はメトロポリタン歌劇場が来日した時にプラシド・ドミンゴ主演で観たが、最盛期だった彼の歌唱もさることながら、あの舞台の豪華さ、妖艶さは素晴らしかった。
思えばあの頃は、日本はバブルに浮かれていて、ああいう贅沢な大道具をひっさげての来日公演が多かったなぁ・・
オッフェンバック 歌劇《ホフマン物語》全曲 [DVD]
更にまた、このオッフェンバックの「舟歌」は、イタリア映画『ライフ・イズ・ビューティフル』にも効果的に用いられていた。
収容所の悲惨な光景を静かに映しながら、バックに流れる二重唱の、なんと悲しく美しかったことか!
ライフ・イズ・ビューティフル [DVD]


最後に・・・
舟歌というジャンルは、まず大抵八分の六拍子で作られるのだが、この拍子も好きだ。
ほんの小さな、ピアノを習い始めた頃から好きだった。
大きく二拍子の中に割り切れない三拍子が入り込む、その安らぎも揺らぎもすべてを含む複雑さが、非常に魅力的な空間を既定してくれる。
素敵な拍子だ。


(・・とはいえ、ショパンの「舟歌」は八分の十二拍子なのだが!!!)


マルタ・アルゲリッチ演奏の『舟歌』 



オペラ『ホフマン物語』より 二重唱「舟歌